昭和五十六年三月二十日 朝の御理解
御理解第九十四節 「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持ってくるとそれを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ」
合楽教会では、まあ信者に不同の扱いをしていないとして聞いて頂きたいんです。親先生が不同の扱いをなさると、例えば言うような場合であっても、それをおかげと頂けるような信心を頂く人こそ、最後にある「信心の篤いのが真の信者じゃ」とこう言う。その信心の篤いとは、または真の信者とはどういうようなのを言うのであろうか。信心が篤くて真の信心が出来て、真の信者になれば真のおかげが間違いないのである。
昨日、日田の綾部さんが参拝されて、「親先生、御大祭まで一月間日参のおかげを頂きたい。それで、定期券を買わせて頂きました」というようなお届けがございました。
本当にやはり大祭。せめて一月間くらいそのための修行でもさせて頂きたいというような心が起ってきた時にや、もう本当の信心が分かりかけてきた時でしょうかね。
御大祭にお参りすりゃそれでしまえたとじゃなくてね。御大祭そのものがね、皆さん一人一人がね、言うならば春の年一回の御大祭。何とかして有難い御比礼に浴したいと願うなら、そのための修行くらいはなさらなきゃ出来ません。一月間そのための修行をさせて頂きたいと。そのための日参をしたいというのです。
そしてお届けされますのに、昨夜ですね。「昨日のことばに、昨夜ある信者さんから電話がかかってまいりました。大変合楽の信心に帰依して、大変喜んでおられる。何かと信心の相談を綾部さんが受けておられる。
ところが、泣き泣き電話が掛かってきた。そこの支部というわけではないですけれども、まあそこの支部長さん格の方から、こっぴどく、「あなたの信心はなっとらん。つまらん」と言って、こっぴどくその言われ、やられてこうだと、長々とかかってきて、聞き終わった後で、その綾部さんが言っておられることですよ。「もうあなたが泣きながら言いなさっるばってん。あなた、いっちょん問題にならないことじゃないですか」と言うて電話を切ったと言うお届けでした。
成程、私もその、どんなことを言われたかというようなことも所々に聞かせて頂いたんです。本当に問題にならないことなんです。もしもそれを、ならその人の声じゃなくて、
神様の声として頂くようになったら、自分もより本当の信心になることが出来るでしょうし、それをその人の言わば、言われるから、言うなら情けなかった。腹が立ったとこういうことになる。
私共がその問題にならないことを問題にしておかげにならない。よく中央では申されますね。「問題を問題として、それを」と。だから、まったく問題にならなかったことまでが問題になってくる。問題そのものがもうおかげと。問題そのものが私の信心、私をいよいよ見極めさせてもらうための神様のご都合であると言うふうな頂き方をしたら、問題が問題でなくなるから、問題はその場で消えてなくなる程しのおかげを頂けるようになったら、私は信心が手篤い信心が出来とるから、そういうふうに御神意を即おかげと受け取ることが出来るのではないでしょうかね。
昨日は県立高校の発表がありましたから、合格御礼のお参りがしばらく続いておりました。中にも一人、やっぱりこりゃ秋山さんの所の長女。あの悌子さんという、福岡の方へお嫁に行っとりますが、親子でお礼に出てまいりました。それこそ超特級の御神酒のお供えを持って、それから、そのお初穂の準備をして、ははあ合格したばいのとここで思わせて頂いた。それに「何何合格御礼」ち書いちゃある。それから、おかげ頂いたばいのと思うてようと見たら、「不合格御礼」
どうでしょう皆さん、超特級がいいじゃないですか。娘が試験に出来なかった。あれだけお願いしとったのにがっかりしたというのではなくて、それこそがっかりしておる娘を引立てて、そしてお礼参拝してきておる。私はね、この信心の篤いのが真の信者じゃとこういうこと。そういう時にお礼が言えれるような信心を頂いておってこそ、私は真の信者じゃと思うですね。
帰り掛けに光橋先生に話した。先生と親戚関係になりますからね。もう私は、もう光橋先生、この不合格通知を受けた時に、もう本当に心が騒がなかった。して、おかげ頂いたなあと言うのが実感でした。「もうこういう心の状態に、いつの間にお育て頂いとったろうかと思うたら、お礼参拝せずにはおられなかった」と言うて帰ったということです。
私はそのことを神様にお届けさして頂いとりましたら、「サボテン」を頂きました。南米なんかに、砂漠地帯に一杯密生しとりますよねサボテンが。あれはね、もう十日二十日お湿りがなかっても決して枯れない。いやむしろ隆々としこって行くんですよね。サボテンという字を、私が御理解流に頂きますと、サは合楽のサ、佐田さんのサ。ホは保という字。テンは天地の天。私はそれを頂いた時に、はあこういう時に力を受けるんだなあと。
お願いしとったらおかげ頂きましたと。誰でも有難い。嬉しい。けども、それと反対の時にお礼が言えれるような。そういう時に力を受けるんだと。もう神様が保証して下さる。佐は合楽の信心という。合楽の神様が言うならば保証して下さる。天が保証して下さる。
「おめぐみ」水と雨とか言うのはお恵みとおっしゃるが、例えば一ヵ月二ヵ月ならお恵
みのお水が切れておっても、それこそビクともしない。ますます根を張って行く、あのサボテンのような信心をさせて頂いたら、必ずお徳を受ける。神様の保証が段々強うなる。神様からの御信用はいよいよ募って行くだろう。
合楽で稽古させて頂いておるというか、合楽理念はそういう時にはこういう受け方は教えるというのじゃなくて、それが本当なのだから、それがおかげを頂く元だからと。もう皆がね、それこそ有名校におかげを受けさせたい。そして受かりたい。成程受かったらいけんということじゃない。
昨日も中に、息子のこと。とにかく息子がどうしたって八女高校に行きたいとこう言う。で、八女高校にまあ進んでいましたところが、一生懸命お願いさせて頂いとったら、あのお夢の中に、赤ん坊取り落としたお夢を頂いた。はあだから、ははあこれは言うなら運命的にはもう落ちるんだなあと思うた。
けれどもね、もう例えば寿命がないという運命の人でも、神様が助けて下さると。開けんはずの道でも開けるのが信心だと御理解頂いとった。だからここは落ちるところでもございましょうけれども、どうぞ息子の一心の願いですから、一心の願いを叶えさせてと言う願いに立った。
もうそれから、御教えの実験に移った。保険の外交をなさっておりますが、丁度お店の方に、あるお客さんが見えて、ほんな事務所の入り口に大きな溝があって、それに蓋がしてある。そのどぶ溝の中に実印を落とした。私は今までかつてあげなふうな心が起ったことがなかったけれども、とにかく自分がその蓋を開けてもらってから、その汚い中にこう手を入れて実印を探してあげた。
もうお客さんが大変に喜ばれた。人が喜ばれるということはこういうことだと思うて、とにかく御教えの実験を、人が喜ぶお客さんが喜ぶことのために一生懸命になった。その日から、まあだ試験の十日前から、毎日「八女高校合格御礼」というお初穂をされた。
私はまた、まあだ試験発表もあっておらないはずなのに、どうして合格の御礼じゃあろうかと思いよったら、それからお供えも本気でお供えさせて頂くようになり、本気でまあ言うならば実験、御教えの実験に取り組んだ。不思議に自信が湧いてきた。おかげ頂くおかげ頂くという心が湧いてきた。息子の話を聞かせて頂きますと、「もう不思議に僕の知っとったっばっかりが出た」というようなおかげを頂いた。
昨日そのその息子も連れてきてからお礼に出てきましたが、「今度は本当、あんたはお母さんのそれこそ一心の信心でおかげ頂いたつばい」と言うて申しましたことですけれどもね。
だから、どうでもという時には、そういう信心の我情我欲を外さしてもらう。いよいよその実験実証に打ち込んで行くというね、そういうところにゃあ助からん所も助かる。落ちるはずの者でも落ちず。こういうおかげはまあ合楽には沢山あるです。
けれども、まあ運命的にです。どういう運命だってもです。その運命そのものを愛する心。自分の運命そのものを尊んで受ける心。そこに運命を生かす道が開けてくる。
これはまあ、中村さんの例はまあいよいよ私どもがおかげを頂かんならんという時にはね、そういう本気での修行に取り組むこともありがたい。私は本当の信心者というのは、そういう時に真の信心が出てくるのじゃあないでしょうか。
我情我欲を放すとはこんなにもありがたいことだ。人のため世のために汚いところも、それこそ何のそのでそれに打ち込んで行くような生き方。そういう時に、はあ人の喜びを感ずる。人の喜びが自分の喜びのように感じられるのはそういう時なんだ。ねえ、実験実証して行くということ。
そしてそれが右になっても左になっても、受けた途端に有難いとお礼の申し上げれる心なんです。もう必ずサボテンのおかげです。合楽の神様はそういう時にです。氏子の心を見て下さる。神様が、天が保証して下さる。
これによく似た話ですけれども、佐田さん所のあの典子さんの時がそうでしたね。もう親子で、もうあのうとにかく何か喜び一杯で出て見えました。はあ合格しなさったばいのうと思うたら、不合格じゃあった。不合格になったということがとにかく有難いというお届けであった。
しゃっちもっち角帽をかぶせにゃあならんとか、しゃっちもっち有名校じゃなからにゃあならんとか、そして言うならば何と言うでしょうか、例えばそれが女であるならば、女の幸せもとうとう大学に行ったばっかりに縁遠なって、もらい手がなかごつなったっちいうのが沢山ありますよ。
成程、二流高校の高校に行かれることになりましたけれども。卒業をした。今度安武先生との結婚。女として幸せ。はあもうと言うようにね。本当の人間の幸せのことにしか神様は働きなさらんです。
だから、子供なら子供を中心に考え、この子供の幸せのために願わにゃいかんです。神様が不幸のために誘導して行きなさるはずは決してないですから。
そういうところを分からして頂いての信心こそ、言うならば信心が手篤いのであり、真の信者というのじゃなかろうか。合楽ではまず皆さん、いわゆる先生が不同な扱いをなさるようなことはない。こちらの受け心一つでおかげが受けられる道である。
そういう道をいよいよん時に、本気で行じて行く生き方を身に付けて行って、いわゆる「真の信者じゃ」というのは、真のおかげが受けられる言わば受け物を作って行くことが、真の信者じゃないでしょうかね。
どうぞ。